6月、陸遜は蜀軍の陣地の一つを攻撃したが、成果を得られなかった。しかしこの時蜀軍の陣営が火に弱いことを見抜いた。陸遜は全軍に指示を出し総攻撃を開始し、水上を急行し火計をもって40以上の蜀軍後方の陣営を陥落させた。
劉備は後方の陣営が落とされると馬鞍山まで撤退し陣を敷いたが、呉軍はこれを四方から攻撃し蜀軍は大敗、潰走した。その後孫桓等は蜀軍を並行追撃し次々に退路を遮断した。この中で馮習や王甫、張南、傅?、馬良らが戦死し、退路を失った黄権も魏に投降、軍船・兵器類が多数奪われた。楊戯の季漢輔臣賛では、指揮官に任命されていた馮習一人に責任を負わせているが、先帝である劉備を弁護する意図があると思われる。劉備は救援の趙雲・馬忠らに助けられ辛うじて白帝城に逃げ込み、白帝城を永安と改名、ここに留まる。
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の被害は著しく、生き残ったのはわずかだったという。これにより蜀漢は荊州を完全に失陥した。
この戦いで意気消沈した劉備は白帝城で病死し、その後を劉禅が継ぎ、国事は諸葛亮に全てゆだねられる事になった。呉ではこの大勝を機に再び魏の影響下から脱して独立色を明確にし、魏に対抗するようになる。
この戦いに参加した呉軍の兵力は、陸遜伝に5万と明記されているが、蜀軍については、本文中には「大軍」とあるだけで明記されていない。文帝記の註には、「劉備の支党4万人と馬2、3千頭が出てきました」という孫権からの上書が載せられている。また蜀軍の被害は、「斬首したり投降してきたりした者は数万にのぼった」(呉主伝)、「その死者は数万にのぼった」(陸遜伝)、「陸議はその兵8万余人を殺し」(劉曄伝註)とある。呉領内の異民族も蜀軍に協力していることから、その兵力は5万〜10万程度だったと思われる。
劉備が漢中を領有した翌年に死んでいるはずの
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が劉備に「年寄りは役に立たぬ(この時劉備も六十代)」と馬鹿にされ、敵に突っ込んでいき矢をうけ、その傷が元で陣没することになっている。また、関羽の仇である麋芳、傅士仁、潘璋、朱然、馬忠らが張苞、関興らの手により次々と戦死するが、これは全くの創作である。
他にも、劉備を追ってきた陸遜が、諸葛亮発案の石兵八陣にかかり進軍出来ずに途中で引き返し、魏の攻撃に対処することになっている。
また劉備の率いる蜀軍の兵力は75万となっているが、蜀漢が滅亡した時の戸籍人口が94万(後主伝)であることを考慮すると現実味に乏しい。
街亭の戦い(がいていのたたかい)は中国の三国時代における、
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と蜀による街亭(甘粛省安定)での戦い。228年、張?の率いた魏軍が馬謖の率いる蜀軍を破った。この戦いで破れたことにより蜀軍は撤退を余儀なくされ、第一次北伐は失敗に終わった。
南蛮を平定した諸葛亮は、先主劉備の悲願である漢室再興・魏国打倒のために侵攻の計画を練り、"出師の表"をもってして蜀軍を率い漢中から出撃した。戦役での総兵数は、魏軍は約17万とも約20万とも、蜀軍は4万から12万くらいだと言われている(「五丈原の戦い」を参照)。
諸葛亮は、魏軍から主力を率いているであろうと目されていた老将趙雲をおとりに使い、魏の大将曹真を引き付け、その間に祁山を攻めた。その際、天水・南安・安定の三郡が蜀に寝返った。魏帝曹叡は事態を危ぶんで自ら長安まで赴いて士気高揚をはかり、諸葛亮に対しては宿将張?を派遣して諸領の奪回を狙った。
そこで諸葛亮は馬謖を街亭の守備に任命し、魏の援軍に備えさせた。街亭は戦略上の要衝で、ここを奪還されると祁山を境に蜀軍は分断されて各個撃破されてしまう危険性があり、死守しなければ撤退せざるを得なくなってしまう重要な拠点であった。馬謖は軍を率いて街亭に布陣したが、諸葛亮の指示に背き、行動は妥当性を欠き、その指示は煩雑を極めており、さらに王平は何度も諌めたにも関らず、馬謖は聞かず水路を捨てて山上に陣を構えた。
街亭に到着した張?は蜀軍の布陣を見ると、まず水をくむ道を断ち、蜀軍の水を絶った。水を断たれた蜀軍が弱り士気が下がると、張?は攻撃をしかけ大いに打ち破った。街亭の蜀軍は潰走するが、王平の率いる兵だけは踏み止まり、軍鼓を打ち鳴らし整然と退却したので、張?は伏兵を警戒して追撃を緩めた。
さらに郭淮は高詳の陣を攻撃し、これを撃破した。
馬謖軍が街亭で敗れたことにより蜀軍は撤退を余儀なくされることになり、蜀軍に降伏した天水・南安・安定の三郡も再び魏軍により平定された。この街亭の戦いの敗戦の責任により馬謖は処刑(獄死の説もある)された。これが有名な故事「泣いて馬謖を斬る」である。馬謖とともに多くの将校が罰せられたが、王平は官位が上がり爵位を加えられた。
蜀軍による北伐で魏国の皇帝を督戦のために引き出したのはこの一戦だけであり、祁山一帯に加え涼州までを巻き込んだ戦役の規模も大きかった。この戦役で長安を落とすことができずに敗戦した蜀軍は、以後の北伐では衰退する国力との苦しい戦いを強いられることになる。
合肥の戦い(がっぴのたたかい)は、中国後漢末期に、曹操領の南方の要衝・合肥を巡って曹操と孫権の間で行われた戦い。後に三国時代を通じてこの方面では攻防が続けられたがついにこの戦線の決着がつくことは無かった。なお
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の戦いについてもここで記述する。
215年に起こった戦いが有名で、劉備が孫権に荊州の一部返還を求めた際、曹操を攻めるように依頼したことから始まった。孫権率いる大軍勢が張遼・楽進・李典を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。
合肥城は長江支流の
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から突き出たような位置の巣湖の北岸に位置し、曹魏勢力からすると長江流域に突きつけた前線拠点という位置で、孫呉に対する攻撃と防御の一大拠点であった。対して孫呉勢力からしてみれば、長江流域の完全掌握のためにも、あるいは外征のためにも確保しておく必要がある拠点であった。合肥城は張遼・楽進・満寵などといった曹魏の軍の重鎮が防衛にあたった。それに対し、呉は巣湖南岸の濡須口に砦を整備するなどしてこれに対峙した。
200年、孫策が急死したため、孫策により廬江太守に任命されていた李術は孫権に反逆し、揚州刺史の厳象を殺害し、それに乗じてか廬江の梅乾、雷緒、陳蘭らが数万人を集めて蜂起するなど長江、淮河一帯は混乱の様相を呈した。この時袁紹と戦っていた曹操はこの方面を鎮撫するには劉馥が適任であると考え、上奏して、劉馥を揚州刺史とした。
劉馥は馬で単身当時空城であった合肥城に入城すると行政機関を整備し雷緒らを帰順させ、屯田、灌漑の整備、教育機関の整備などを行い民政を整え備蓄を増すなどした。また劉馥は国家にとって合肥城が要衝になると考え、合肥城の城壁、土塁の強化や城壁に取り付いた兵を打ち払うための木や石、むしろ、魚油を備蓄するなど戦争の準備をした。この劉馥による合肥城の整備は強固なもので後の孫権軍をおおいに苦しめることとなる。
208年、赤壁の戦いで孫権、劉備の連合軍は烏林で曹操の軍を打ち破り曹操はまず江陵にそして荊州守備を部将たちに任せると許昌へと撤退した。周瑜らの曹操迎撃軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時柴桑に駐屯していた孫権は余勢を駆ってか自ら軍を率いて江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。
曹操は張喜と蒋済に1000人の軍を率いて即座に救援として派遣し汝南を通過する際にその地域の兵をさらに率いさせることとした。張喜と蒋済の軍はそもそも寡兵であった上に疫病によりさらにそこから目減りしていたが、蒋済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、それにより本当に4万の軍勢が救援として接近していると考えこの方面から撤退した。
209年、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。しかし史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。
212年10月、前年に馬超以下関中の軍閥を破った曹操は自ら軍を率いて孫権征討を開始した。馬超を倒した以上曹操は西部にまわす兵力をある程度減らすことも出来、さらに関中以西の動員力をある程度掌握していたはずで、この時曹操は赤壁時以上の大軍を率いていた可能性もある。
213年正月、曹操は軍を濡須口に進め、孫権も自ら軍を率いて防衛にあたったが、董襲の乗艦が夜間の突風で大破、沈没し、董襲は死亡した。この時董襲は部下に下船するように説得されたが、将軍としての責務を説き最後まで艦の復帰を図った。徐盛も暴風に遭い敵方の岸辺に座礁したが果敢に戦った。
曹操は夜中出撃し中州に上陸したが孫権軍の攻撃を受け退却した。孫権は曹操が出撃してこないのを見て船に乗り自ら強行偵察に出て、帰還して楽隊に盛大に音楽を鳴らさせた。その後も孫権は積極的に戦いを挑もうとしたが、孫瑜などはこれを諫めている。